ちばりのち晴れ

'19年3月から1年の台湾語学留学を経験、高校卒業を起に突っ走る台湾奔走記

ブログ放置から5ヶ月、これまでの進路の苦悩葛藤とこれからの決断を振り返る【台湾語学留学・約9ヶ月目】

本日12月1日、2019年最終月。3月に留学をはじめて274日目。
最後にブログを更新してから5ヶ月以上も時が経ってしまいました。お久しぶりです、たほです。生きてます

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体感温度40度を優に超えた地獄のような蒸し暑さとはとうの昔にお別れし、次第に涼しさが混じり、ここ最近の一時帰省を機に気温20度を下回る日々がやって来ました。台北の冬、太陽が出るとすごく気持ちよく過ごしやすいのですが、雨が降り出すと身体に纏わりつく寒さ地獄を見ます。格別に過ごしやすい日々が少しでも長く続くといいなぁ、と願うばかりです。


今回は、進路に関する自分の進退を書き残す回としました。


この5ヶ月間に何があったのかと振り返ると、それはそれは、色んなことが雪崩のように降りかかって来たように思います。そして理想とは裏腹に形に残る進歩が簡単に手に入らず、苦しい思いばかりをそれなりに積み上げてしまいました。

上手く言葉にできない。
上手くひとりで消化できない。

そんな日々も常で、このブログを通して自分の現実と今後に向き合うことを極端に避けてしまっていました。「それこそ赤裸々に書いてしまえばよかったのに、もっと早く前を向けたのに」と今思わない、とは嘘でも断言できません。その分だけ後悔も大きく育ちました。
でもあのまま続けていたら、自分のネガティブ思考であまりにも自分の夢や目標ややりたいことをぐちゃぐちゃに破壊してしまう気がして、恐ろしくて怖くて触れられませんでした。


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(実は10月にも下書きでブログを更新しようと試みたけれど、この後恐ろしいほどの読み返し難い脱線を生み出し「まだ辛い気持ちが癒えてないな」と判断しお蔵入りした、という小話があります。この時期もただただ進路や語学面においての「先の見えない苦しさ」と戦っていました。改めて当時の文章を読んで、やっぱり赤裸々にリアルタイムに書かなくてよかったと思いました。)


5ヶ月という受験期の長い大きな時間を通して、今ようやく、前を向き続けることができるようになりました。この5ヶ月間で兄弟、友だち、Twitter等で交流をしてくださる先輩方をはじめとした大人の方々にたくさんお話を聞いて頂きました、本当にありがとうございました。この場を借りて感謝申し上げます。

今日は学期間のお休み(放假)を利用して、「5ヶ月間の進路についてのあれこれと今後のこと」について当時のTwitterのツイートと共に振り返ってみようと思います。



今回もどうぞお付き合いください。

心をすり減らした進路方面、これまでと今現在の試み


進路のことを振り返るにあたって当時のツイートを現在進行形で振り返ってみる。

留学に来て間もなく「進路のことを考えなければ」とぼんやり描いてはいましたが、課題の多さ語学勉強においての困難にぶち当たり、再開と中断をひたすら繰り返していました。
そんな日々に「流石に進路を考えて見据えていかんと」と変化を起こしたのは6月中旬のこと。


6月17日、自分の真の志望学科に気づいてしまう


これが自分にとって悪夢を見る前兆でした。


悪夢の始まりは6月25日


「進路を具体的に、志望学科として可視化してみよう」と始めた進路研究で、自分にとってとうの昔に諦めたであろう分野が未だ未練として残っていることに気づいてしまいました。芸術方面、デザイン方面の道でした。

諦めた理由というのは「バカ高く築き上げてしまったプライド」「自分の何の変哲も無い力では職に漕ぎ着けるのは難しいと悟った」「他に好きだった語学方面なら突き詰めていけると思った」など、今振り返ると半ば理想と現実の差に目を逸らした「逃げ」に近いようなものでした。

その時はまだ知識も単純で『芸術方面に向かうことは絵で食べていくこと』のような認識で、完全にその世界を前に尻込みしていました。
小さい頃から賞を目指して絵を覚える、という楽しさの裏に歪んだ部分が所々にあったので、高学年に入ったあたりから賞を掴めなくなったことに対して「純粋な楽しさ」よりも「焦りやプライドの揺れ」ばかりを感じていた、という悩みがありました。

中学3年で出会った美術の先生のもとで「高校ではこの夢は捨てよう、ただの趣味としてやっていこう」と決めて全力で取り組み、成績で学年1位を守り続けました。
その内に先生から「ぜひ高校は芸術科へ」と声をかけて頂きましたが、「絵は趣味と決めたので」と首を横に振ったことで、これでよかったんだ、と肩の荷が下りたように心底安心した覚えがあります。


その決断がまさか今になって帰ってくるなんて、後に自分の首を絞め始めるだなんて夢にも思わず。

混乱困惑フラッシュバックした「あの時」への後悔、色んな思いをずっしりと抱えて、ただただ唖然とすることしかできませんでした。

自分が後にダメになってしまうことは自分がよくわかっていたので、「まだ自分の元気がある内に」と母校にダメ元で連絡。
卒業してもう4年連絡つく方が奇跡に近い、そんな不安が過ぎる中。先生が未だ在籍していることが分かり、奇跡的に連絡を取ることができました。

自分は「完全に夢を見れる人ではなかった」という一言に尽きると思う。


人からのアドバイスは時に呪いとなる


一時帰国で先生と再会を果たす8月下旬までの間、以前まで頻繁にお世話になった台湾人の方に色々とお話を聞いたりして、自身の進路をひとりで考え続けました。


(深刻なネガティブが止まらない止まらない)

が、この段階を踏んだこと自分が進路において迷走したり深みに嵌る原因だっただろう、と今振り返って思うことが多々ある。「私立に行くくらいなら帰った方がいい、故郷で進学した方がいい」という指摘によって、崖の淵に立たされたような気持ちになりました。
その言葉に深い衝撃を受ける一方で、納得する自分がいました。


何よりも、その言葉を面と向かって言われたことで酷く緊張し、次第に「人の目を気にした進路選び」をし始めるようになってしまいました。
この出来事を境に、人の話を深刻に飲み込むあまり一人勝手にいっぱいいっぱいになっていきます。


実際このツイートの返信にて「諦めるのは早い」「やりたいことをやるべきだよ」と先輩方からお声かけて頂きましたが、あの時もっと早く「そうだよね!!!!」と正気に戻ることができていればな〜〜なんて思っちゃいます。
ヤですね、人のせいにしているような語感です。完全に自分の非が大きいです。でも、それでも、いつまでも「もしもあの時ああしていれば」という後悔を繰り返してしまいます。


個人の進路に関わる話を鵜呑みにし過ぎた自分が悪いので、今見返すと「人のあーだこうだじゃなくて、お前が全てを決めるんだよ!!!!!!」と自分自身にヤジを飛ばしたくなってしまいます。ようやく前を見て進路を見つめ直すことができるようになった今、やっぱり前向きな自分の心に従う心が一番だな、と今現在改めて思い知っています。
それは、これからも忘れないでいきたい。


後にこの自分に対しての呪いは割と最近、10月辺りまで続きました。


中学3年の恩師に再会する


奇跡的に連絡の取れた日から1ヶ月程経った頃。
一時帰省中に4年ぶりに母校へ足を運び、在学中にお世話になった美術の先生と再会しました。

丁度足を運んだ時間は放課後になり間もない時間で、美術部の子たちがコンクールに向けてキャンバスと睨めっこしていました。

部員の子達に「貴方達にも話した、初年度に担当した成績1位だった教え子だよ」とご紹介頂き、そこで初めてわたしの中学生の頃の話を語り継いでいること学内コンクールの作品例にわたしの作品を紹介し続けていることを知り、恐縮な思いでいっぱいになりました。なんだか猛烈に恥ずかしかった。
先生曰く「成績トップを掻っ攫っておきながら、美術の道を歩まなかった問題児のことはもちろんよく覚えています」だそう。推薦を断った時には「この問題児、この野郎」とまで思ったそう(これは流石に冗談だろう)。でも、なんか、ごめんなさい。


当時の成績を見せてもらいながら思い出話に花咲かせたりもしました。親友はあの美大に行きましたね〜とか、中学卒業後や高校での出来事など、話したいことが山ほど浮かんでは、時間を忘れてあれからのことを沢山お話しました。

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中学校の美術の時間、とあるクロッキー課題で1年間席次がつけられていました。
(今年度担当した期待の新星が現れるまで私の総合評価点が破られることはなかったらしい、知らぬ間に数年間も点数を死守し続けていたことに自分が一番びっくりした)


世間話も落ちついてきた頃。
今進路のことを考えて少し苦しいこと、「先生の勧めをあの時断らなければ、」と考えることがある、今更目指してどうにかなるのかと不安になる、など赤裸々に話しました。
全て聞いてくれた後に「きっとすごく遠回りをしたと思っているだろうけど、私はそうは決して思わない。たほさんがこうして芸術方面に戻ってきてくれたことが私はとても嬉しいよ。お帰りなさい。と仰ってくださったことを今でもよく覚えています。

「ああ戻ってきても良かったんだ、遅くなんかなかったかもしれないんだ」とようやく思えました。
美術の道は高校の時点で決まる大学で始めることなんて不可能だ、なんて考えていたので、「お帰りなさい」と言われて、温かくてすごく嬉しかったです。

大学の申請条件のお話まで聞いていただき、笑顔で教室を出て家に帰るとき。そのとても短い帰り道でちょっぴり我慢ができず、顔を裾で拭うことになりました。



(その翌日に帰ってきた台湾、台北にて)


語学留学2年目、母国進学という道を前にした日々


この頃、ようやく重い腰を持ち上げ人に相談をするようになる。


それまで兄弟にも深く相談をすることがなかったので、兄弟には「もし今年がダメでも、語学と一緒に第一志望のデザインに本腰入れて取り込んで、それで受かれば2年目の語学留学も全然悪くないと思う」と指摘してもらったり、家族に「今から日本進学に切り替えてもいいんだよ」と言われるまでになりました。たまたま兄弟が台湾にやってきた時には「決断に踏み出せなくて苦しいなら、一緒に今で動こう」「デザインで有名な大学はどこなの、今に『見学に行っていいですか』って連絡して見に行こう」と多少強引なアドバイスを頂きました。

「流石にそれは大学側の都合もあるはずなので無茶過ぎる」と断念しましたが、兄弟が滞在する間に苦しくて送信ができなかった問い合わせメールを勢いに任せて送りました。

でもこういう、兄弟の積極的な行動力にはいつも尊敬する。今のわたしが時折「たほさんのその行動力が素晴らしい」と褒めていただけることがあるのは、そんな物怖じせず前を向き続ける姉の背中をひたすら見つめてきたからだと思う。



今まで散々デザインへの意欲を募らせる中で「どうして台湾を選んだの」「なぜ東京に行かないのか」と言われてきた分だけ、もしかしてわたしは選択を間違えたのでは……という不安が過ることもありました。
今でも時には言われてしまうし、ふと「わたしも日本で進学していたら今頃どんな生活をしていたんだろう」と、少々思いを馳せることもあります。大学で思い思いの生活を送る友人の姿を、画面越しにぼんやりと眺めることも勿論ありました。

でも、「一つの進路の道に限られた王道」のみだけでなく、「自分で開拓していける道を攻めていく道」、そのどちらにもそれぞれの長所短所が存在して、そして後々に遭遇するチャンスを掴む鍵は自分自身にあることには双方変わりないのだろう、と思う。
この土地でデザインを学ぶことは確かに東京に、日本に比べれば劣る点はあるのかもしれない。でも現代においての中華圏の勢いを、リアルタイムで言語を理解した状態で体感することができるというのは、自分の能力・知識の面で強みとなりうるのでは、と考えています。何よりそのことを考えるととても楽しくワクワクとした気持ちになります。そんな自分の心のままに「台湾でデザインを」という道を歩くことができればいい、と思います。


そう考えるまでに沢山、本当に沢山の時間をかけたなぁ、と少し苦笑いになります。結局はこの1年で行きたい進路にたどり着く保証なんてどこにもないので、2年目に関してはその時の状況次第なのかな、とぼんやり考えています。



国語学科を視野に入れる、という選択肢


もちろん設計系1本に絞ってしまうのも、と思いその他関連する学科の受験を検討していましたが、先日終えたばかりの秋学期を機に国語学科の受験も視野に入れるようになりました。

今学期のこの3ヶ月間、自分自身で述べたり書き記した内容が訂正されノートが終始真っ赤っかなまま学期フィニッシュを迎えてしまいました。
今まで比べあまり進歩を感じるができず、少し語学学習において一つの停滞時期を迎えてしまったのかな、と焦る心がありました。実際に努力が足りてないのも事実。

担任の老師とあまり相性が合わなかったうえ、クラス替えチャレンジに失敗し逃れられない状況下だったことも背景にあり、流石に発言や内容を怒涛の勢いで端から端まで直される日が続いた時には「中国語の壁から逃れられない、このままぶち当たり続けているのでは」としばらく落ち込んでしまったりもしました。

また今学期の同學の大半が中国語学科出身で、中国留学歴がある人が多々いれば中国語歴十数年の人もいたり、やっぱり言語を学んで2年と満たない自分が飛び込むことで語彙や知識が間に合わないことが多々続いたり、と中々苦しい時期がひたすら続きました。
そんな中で耐えきれず老師に何度か不安をポロリとこぼし続けたりもしました……。めっちゃネガティブじゃん……と自分でも十分理解していました。大変苦しかったです。


あとここ先日の話ですが、11月のTOCFL高階級を取得できず、結果的に7月に受験した際に合格した進階級を再度獲得してしまいました。高階級が申請基準という学科が本当に多々あるので、それに満たなかったことで自分の中国語に対する課題が浮き彫りになりました。


7月受験時の点数と比較してリスニングには確かな成長が見える一方、読解は僅か1点しか加算されていませんでした。点数を通して嫌でも自分の語彙不足を痛感し、ついには一種の限界を迎えたのかと、しばらく項垂れる日が続きました。


英語を勉強していた時にも考えてはいたけど、やはり中国語も同様に言語はがっつり一点集中型で勉強してようやく身につけることができるのでは、時間と体力その他諸々が語学留学では間に合わないのでは、など色々考えてみて、最終的に中国語学科を候補に入れてみることに落ち着きました。

実際は設計系を第一志望に視野に入れていますが、もしも今後の自分の選択肢に限りがあると感じれば中国語を自ら選ぶ日が来るかもしれません。
台湾進学の先輩方からは「大学で言語にプラスになる道を選ぶことがベストだと思う」と的を得た意見を頂き、候補に入れるかどうか迷いましたが、それでも実際にこの土地に来ることで「生活基準を言語に合わせてじっくり学ぶことの楽しさ」を語学学校を通して感じたので、この道を選ぶことも決して悪くないと考えています。
卒業後の進路に関しては海外に留まることが厳しくはなってしまいますが、大学外での行動が鍵を握る部分もあると信じ、在学中に先を見て先制的に動くことができればな、と思っています。


未だに出願校を絞りきれた訳ではなく、未だに問い合わせや資料をもとに探り探りの日々が続いています。
また国立と私立の出願・合格発表の期間の問題で、受験を決めた大学によっては入学学科決断の計画が台無しになる事態が起こることが判明したので、中国語学科・設計学科の双方があるとある大学の合否を基準に進路については決断するかと思います。どちらにせよ大学に受かりたい、進路を落ち着けたい一心です。



紆余曲折を得て顔を上げたこれからのこと


今ここまでの出来事を振り返った今、本当に回り道行き止まり崖の淵、色々な苦しかった思いを背負っても顔を上げることができた自分をいっぱいいっぱい労りたい。
たくさん立ち止まってしまいましたが、なんとか顔を上げることができるまでになりました。

そして今回の放假にて出願準備で3ヶ月ぶりに帰省した帰り、以前から問い合わせをしていたとある大学の設計系を見学しに行ってみたりもしました。
歩みは遅いけれど、少しずつではあるけれど、進んでいます。

じきに語学学校の冬学期が始まります。春から数えて4学期目、ついに春夏秋冬の一年間をこの土地で過ごすことになります。

これからは大学の出願準備に取り掛かるため、書類準備や作品集作りの慌ただしい日々に入っていきます。歩みが分からず手探りしつつではありますが、自分のやりたいことを追求できる切符を手に入れるためにも、精一杯頑張りたいと思います。



ブログについてのご挨拶


この5ヶ月は更新ができない状態が続いていましたが、失踪したと思われても過言ではなかったこのブログへの訪問がじわじわ細々と数を更新していたようでした。ありがたい。
今後、来年の春頃にかけてまたしばらく更新の一切できない状況になってしまうと思います。申し訳ない。

更新しない間も、語学に進路に必死にもがいていく所存です、勝手ではありますが、これからも引き続きよろしくお願いします。

「頑張りぬいた先の将来が晴れ晴れとした色でありますように」という願いを込めたブログ名にふさわしい、晴れのスタートをいつの日か決めることができるよう、精一杯頑張ってきます。





ここまでありがとうございました。こうして自分の今までとこれからの決心を振り返って、また落ち着けたような気がします。



次回の更新は未定です。

いい報告を持って戻ってくるためにもここではしばらくお別れです。Twitterは自分自身のガス抜きのためにも引き続き更新していくつもりです、そちらもよろしくお願いします。


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がんばります!