ちばりのち晴れ

'19年3月から1年の台湾語学留学を経験、高校卒業を起に突っ走る台湾奔走記

好久不見!台湾で語学留学生になって1ヶ月が経過しました。【台湾語学留学・1ヶ月目】

こんにちは、お久しぶりです!たほ(@taho1932)です。

まず初めに、好久不見!
お久しぶりです。3週間ぶりのブログです……
投稿できていない間に、元号発表という大事な歴史に触れる瞬間あっさりと迎えてしまいました。

▽官邸公式Instagramライブ配信で新元号を見届け、残念がるわたし。


先週・先々週はプレゼン課題で忙しくて更新できず、何ともけじめのつかない週末を過ごしてしまいました。
2週間連続で準備を整える羽目になりましたが、「計画性を持つ」ということを台湾に来て嫌というほど学んだおかげで何とか終わることができました。根性って大事ですね……。

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▽プチ旅行で訪れたデザイン書専門の有料図書館。

今日は2019年4月7日。4連休の清明節の最終日に差し掛かりました。

今の今まで11〜18度という白い息も一瞬出かけた寒さから一転、この連休は最高28度というとんでもない蒸し暑さを放っていました。

おかげさまで連休の台北市内プチ旅行、服装間違えて死にかけました



そして台湾に来て、先週の土曜日で1ヶ月を迎えました。早いなぁ。



留学をはじめて1ヶ月。わたしが今どんなことを思うのか。
果たして、ここ1ヶ月の中国語の進歩は如何程か…??

他の方のブログのようにきっちりとした経過報告をするとただただ重く長くなりそうなので、今回は普通に出来事や考えを振り返る日記のような文面にしました。さらに長くなりました。
ついに10000字突破です。12000字の超大作です。時間があるときにぜひ読んでくださいませ……


今週もどうぞお付き合いください!


この1ヶ月を振り返って

語学学校に通う日々が始まって、1ヶ月が経ちました。
そして、こちらは4週間前の更新。少し懐かしく感じる文面です。
chibarinochi-hare.hatenablog.com

今考えると、1週間目は本当に試行錯誤の連続の日々でした。
バスの乗り方が分からない、からタクシーに2〜3回ほど乗りました。
(今考えると本当に……どちゃくそ高い……)
勉強では日本において来たはずのプライドがぐちゃぐちゃになり、一度、泣きました。


やっぱり、最初は辛かったです。


クラスの半分以上、7割ほどは前回の2018年冬班(107年冬)からの持ち上がり
持ち上がりの人たちは少なくとも3ヶ月も前から授業を受けて、当然聞く力が備わっていること。
そんなことは十二分に分かっているつもりでした
でもやっぱりそのをひどく重く受け止めたり、 思い通りの意思疎通が叶わない自分への不甲斐無い気持ちに沈む気持ちが抑えられなくて…


そんな日々も、1ヶ月経った今ではもう遠い過去のように感じます。
課題も授業も慣れ、普通に語学生として毎日あふれんばかりの課題と格闘しています。


でもやっぱり、文法の口答練習で自分の不慣れな面が垣間見えると、今でも落ち込む時は落ち込みます


でもそういう時に、自分で書いた言葉を思い出します。

わたしは中国語を勉強しに来たのであって、ちっとも完璧ではない。それなら、沢山挑戦をして一つずつ地道に学んでいく必要があります。
完璧でもないと分かる中で、何も怖がる必要なんてないと気づいたのでした。

授業を受けることを辛く感じたとき、「どうか今は当てないでくれ」と願ったりもしていたわたしですが、今では堂々と間違えて直されたい、という思いが芽生えています。

目を塞ぎたくなる文法ミスも幾度となくやらかしますが、わたしのクラスの先生しっかり間違いを拾ってくれて再チャレンジできる機会を必ず作ってくれます。
そしてまた酷い間違いをした時、「ピャピャピャッッ」て指摘してくれます。笑


レベルの高い生徒たちと和やかに話をし、楽しく愉快に そして真摯に生徒に向き合ってくれる先生。
全てのこと含めて、「このクラスで良かった」と心から思います。
「自分はクラスを変えるべき」だなんて弱音を吐いていましたが、このクラスに当てはめて貰えたことは正しくてベストな判断だったように思います。
そうでなければ、精神面でもここまでの成長はなかったと思います。


今、この出会いがあの1週間目の苦難を生んでくれたことを心から感謝しています。



肝心の課題の成果ですが。


よくプレゼン課題(報告功課)を出されています。最初は「2週間に一度のペースかな?」と考えていましたが、どうやら思った以上に頻繁にありそうです。
(他大学の語学学校に通う仲間はそこまで頻度よくプレゼンしてない気がする…??)
これも大学や先生によって差があるのでしょうか?

▽麻煩ma2fan:面倒くさい の意。
「面倒くさい」の使い方やニュアンスによってはまた異なる言い方をするようですが。ここでは省略。


個人的には、プレゼンを行うことは楽しくてやりがいを感じます
でも、作成にすごく時間がかかるので面倒な課題であることも、また事実です。
最初は口答文章をガン見の勢いで発表してしまっていましたが、次回・また次回と見る回数が減るようになってきました。

「どうやったら反応の声が上がるプレゼンに仕上げられるのか。」
「ただ一方的に発表するのではなく、聞いていて見ていて楽しいものにしたいな。」

そう考えて練っていった分だけ「プレゼンをする」という行為を「辛い」と感じなくなり発表することの楽しさに繋がっています。
言葉がスラスラ言えた時、わたしのプレゼン内容に反応してくれると、「よっしゃ!!!」ってなります。笑 
それが今一番の喜びでもあり楽しみでもあります。


個人的に驚いたのは、韓国から来た同級生のレベルの高さ
初回から一切、用意した口答文章を見ずに発表していたのです。
聞くと、高校生の頃からこういったプレゼンの機会が頻繁にあったらしく、散々やりすぎてて慣れてしまったのだそう。
それでも、異国の言葉の発表でも一切読まずに臨機応変に発表ができるなんてすごい、すごすぎる………

今のわたしの目標は、そんな彼女のようなプレゼンをすること。
あわよくば彼女を超えるようなプレゼンを、一度でいいからやってみたい。


負けず嫌いの精神で、もう少し力を入れて頑張ってみようと思います。
充分頑張ってるんですけどね!!(制作に5〜6時間、それ以上)


学校での挑戦はまだまだ続きます。


日々の経験を自身の「学び」にする為に

1週間目での記事や先ほどの記事でも何度か書きましたが、自分の意見を言えないとめちゃくちゃ落ち込みます
「ああ、今の絶対落ち着いたら言えたのに!」と、この1ヶ月 何度も思いました。

でも落ち込むだけで終わるのはすごく勿体無い。
ただ落ち込むだけではなく、一つの落ち込みにひとつでもいいから「学び」が欲しいと感じています。

それは日々、外に出ると考えることです。
「あの単語が聞き取れなかった」
「店員さんの言ったあのフレーズに一発で答えることが出来なかった」
「そもそも今なんて聞かれていたんだ」

………などなど。

どうしても「分からない」のまま終わりたくなくて、移動中に相手の行動言動を思い出しては、「もしかしてアレが言いたかったのでは??」と思考を巡らせています。
早く、相手の言うことに対して臨機応変に返せるようになりたいものです。


いつもウンウン頭を捻って考えていたわたしでしたが、最近はより一層地元の店員さん言語を通して関わる機会が増えてきたように思います。まだまだ英語対応をお願いしてしまう場面もありますが、中国語も積極的に挑戦しています。

よく行く食堂コンビニでは顔を覚えられ、「この週末は何するの?」「これ試しに食べてみて!」と会話が広がったり、思わぬ試食サービスに驚いたりしています。

自分が動けば、毎日は交流発見にあふれています


そして1人で外に出ると、えらく声をかけられます。(人からもよく言われる)
最近では、MRT内(地下鉄)で道を聞かれることがすごい多くなりました。


「新店線に乗りたいんだけど、乗り換えの線が全然見当たらないのよ……ねえここって中山站じゃないの?ここどこ?(※雙連站 / お隣の駅で)」
「板南線に乗りたいんだけど、どこに歩いて行けばいい?(※台北車站で)」
「フードコートを探しているんだけど、どこかある?(※ 〃 )」

実際に、わたしがプチ旅行に出かけた中で聞かれた言葉です。全て中国語で。


聞かれ方が本当に突然
隣から不意に話しかけられる、とか、「あれわたしのこと知ってます??」ってくらいフラッと尋ねられます。
こういう時、しどろもどろになりながらも しっかり中国語で答えています。


日本にいるときにも、よく道を尋ねられましたし 話しかけられました。

「たほ、話しかけたら答えてくれそうな見た目してるからねぇ」と友達や家族には言われていました。(これって褒めてる?のか?)

もしやここ、台湾でもその印象は共通で持たれているのでは…?とも考えたりしましたが、真相は謎のままです。
何でだろう、誰か教えて欲しい。


そういう話をして思い出すのは去年の年末。
嘉義に出向いた際、皮蛋豆腐を頬張るわたしを見た食事相手の夫婦に「いやぁ僕ら以上に台湾人してるね、原住民に似てるよ」と言われました。
原住民、とは……どの一族の話だ……??そんな言うほど??とびっくりして真剣に画像検索でじっくり見てみましたが、いまいちよく分からん。

でも確かに、「中国語が話せそう」と判断されることも無理はないかもしれません。人々の思惑どおり、話せるようになりたいなぁ。


私たほ、日々奮闘中です。


今の自分になるまでの「点」と「線」

ここまで1ヶ月の留学生活、その前の台湾留学を志したきっかけには、無くてはならない存在がありました。


わたしには、「台湾」を視野に入れるきっかけをくれた兄弟がいます。
サイドバー初めの「わたしについて」に書いた、「台湾へ行く」というきっかけを与えてくれたお姉さんです。

よく自分の経験を「お前の反面教師にしてほしい」と話してくれますが、その経験はわたしが同じ立場に立った時、勢いよく頷けるようなものばかりではありません。
その勢いの良さに憧れ、尊敬の念を抱き、今の私へと自分が変わっていきました。


正直な話をすると、ほんの3年ほど前までは、台湾どころか中国語に一切興味がありませんでした

それどころか、語学に興味を持つ一方で「海外へ行く」という考え自身の勇気が追いつかない自分がいました。
やりたいことがあるのに、「あの土地でこれをやりたい」というビジョンが自分では全く想像できないわたしがいたのです。

それが今ではどうでしょう。興味がなかったはずの中国語に興味を持ち 勉強するために、ここ、台湾に来ているわたしがいます
海外へと足を踏み入れた自分がいます。



兄弟が与えてくれたきっかけは、これだけではありませんでした。



中学生の頃 わたしが自分の強みとして「語学」を取り入れたい、と強く思うまでのきっかけをくれたのも兄弟でした。
兄弟の行動派な一面によく驚き・ときには心配し・応援しているうちに、すごく生き生きしている姿を見ているうち「毎日が楽しそうだなぁ、」と心から思ったのです。
それが、わたしの語学に対する道が実際に開けた瞬間だったように思います。1人だけで考えていても、結局、引き下がっていたでしょうから。


わたしが今目指しているもののきっかけは全て、身近にいた兄弟の存在があってこそだったように思います。
実際、当時どう考えて今までの選択を選んだか なんて100%は思い出せませんが、やっぱりお姉さんの辿った道無しには、今の自分はいなかったと思います。

それは間違いなく、自分にとっての「一番はじめの点」だったと思います。


兄弟はいつも「今、お前のこの選択が喉から手が出るほど羨ましいよ!」と悔しそうに笑います。留学に向けて中国語を勉強し始めた頃も、留学準備をした時も、そして今も。
その一方でわたしがこの年齢で単身台湾へ渡る姿を応援し、困った時にはいつでも厚いサポートをしてくれています。知る限りの現地情報や興味深い場所をシェアしてくれたりもします。

本当に感謝しています。いつもありがとう。


わたしが中学生の頃から度々、こう語りかけてくれました。
「たほ、お前はアンテナをいつでも張り巡らせておけよ。」
「お前がやりたいことは何でも挑戦してみろよ、絶対に無駄になるものなんて何一つ無いんだから。点と点が繋がるときが絶対あるから。」

あの頃は今のように「留学」を憧れている一方で、実際に留学につながるような努力や挑戦にはなかなか踏み出せないでいた弱い一面がありました。
ですが、兄弟が度々口にしていた「点と線」のお話は、不思議といつからかわたしの考え方の中心核として位置していたように思います。


例えば、として長たらしい話でも。



わたしは小中高と全て、学校の生徒会の立場に立ってきました。
高校ではその上部に立つことはありませんでしたが、それでも係のリーダーとして何人かの同級生や後輩を引っ張ってはリーダーとしての仕事を全うしました。


それが想像以上に大変で、2年生から3年生までは放課後だけでなく長期休みの合間を縫って学校に出向き、エクセルに向き合う日々が何度もありました。
とてもやりがいよりも面倒くささの勝る日々でしたし、何度も「どうしてリーダーと言うものはこうして孤独に仕事をするんだ」不満を垂らした日も勿論ありました。
でも、メンバーが部活や塾の合間を縫って仕事を手伝ってくれることも 先生方が忙しい間を縫って手伝ってくれていることも十分に分かっていたので、逃げずに向き合い頑張りました。


そうしている間に、不慣れながらもしっかりついて来てくれる後輩たちに出会いました。
協力要請を無条件に募ると、部活を自ら抜けてくれるまで一途にわたしを手伝ってくれる後輩。よく「良かったらどうぞ」とチョコをくれる、気遣いのある優しい真面目な子でした。また、ある1人の後輩も出来るだけ業務の手伝いをしてくれ、時には「こうするのはどうでしょうか」と的確な提案をしてくれる、責任感の持てる後輩もできました。

生徒会引き継ぎの際、業務の説明を行い実際にお願いしてみたとき、あまりの量に慌てふためく後輩たちの姿がありました。
「たほ先輩、これをずっと1年間やってきてたんですか」
「手伝ってきて知っていたつもりでした、全然知らなかったです」

そう放心する2人でしたが、その内淡々と業務に打ち込み始めました。
わたしの慕った通り、どこまでも頑張ってくれる、どこまでも丁寧な子達でした。


真新しく思い出せるのは、卒業の日。
卒業生の花道を終えてしばらくした時、わたしを見つけた2人が生徒会からの卒業祝いを持ってわたしの元に駆け寄ってくれました。
「明日から台湾だよ」と言うとまんまるな目で衝撃を受けていましたが、「先輩は絶対、台湾でも大丈夫です」「生徒会、ちゃんと頑張ります」心強い一言をわたしにかけてくれました。

ふとした時、高校を懐かしんだ際、生徒会のことも思い出すと 彼女たちの顔も浮かびます。その経験も出会いも、お互いのための「点」になっているといいなぁ、なんて思います。


また、生徒会を機に出会った先生方とも様々な会話をしました。
普段ならしないであろう世間話とかで笑い合い、時には議論しました。
遅くまで学校に残った時には横からおにぎりやお茶やお菓子を差し出してくれました。わたしのために用意してくれていることに心がじんわりと温かくなったことは数知れません。

また、係以外の同じ生徒会メンバーとの出来事も思い出深いものがあります。
学校行事の際には、毎日先生方へのイデア交渉に明け暮れ、「歴代で最高なものにしたい」と奮闘していた執行部メンバーの努力もたくさん見てきました。
生徒会主催行事が成功した時、舞台袖でみんなで歓喜して飛び跳ねて踊ったことは大切な思い出にもなっています。

生徒会無しではそれら全ての「出会い」も全て得られなかったと思います。今では、心の底から「生徒会に入ってよかった」と思います



わたしが初めての生徒会入りを決めた理由は、ただの内申目当てではありませんでした。



中学生の頃の生徒会では「一緒に生徒会、やってみない?」と声をかけてきてくれた同級生の誘いで参加を考えました。
わたしの中学校では立候補式皆が生徒会長の座を狙い演説を行う、というものでした。

わたしにとって生徒会長は眼中になく、「みんなの前に出れば、体が震えなくなるかもしれない」という、発表時の震えを荒治療するための手段にしか過ぎませんでした。


当時のわたしは発表時、足が 手が 声が震え、表情が強張ることに酷く悩まされていました。
そう書くと重度の振動をイメージしてしまいますが、実際には上がり症程度です。

震えるきっかけは中学1・2年生の頃、所属していた部活の泥沼並みのトラブルの仲立ちをしてしまったことがきっかけでした。
対立する両方から意見を聞き、止まない愚痴の数々を聞き、問いただされているうちに、自分の意見を公にすることに恐怖を感じたのです。何度も、何度も、このトラブル関連やまた別の問題が勃発してはミーティングが行われました。
選手の場を離れマネージャーに転身 そして部活を去るその頃にはもう、既に口を開くことを極端に恐れるわたしが出来上がっていました。

それを何とか治したい一心で、同級生の誘いに応じました。


結論のみを言うと、完全には治りませんでした。


発表毎には恐怖を飲みながらマイクを持ちました。でも、やっぱり震えました。
精一杯の挑戦を続けたわたしは人の目にどう映っていたでしょう。
もしかしたらただの「上がり症」と思われていたかもしれません。そして、見苦しかったかもしれません。

それでも構わないから、とがむしゃらに頑張りました。
努力して、努力して、自分と向き合って立ち向かい続けました。


後に「実は生徒会に誘ったあの時、たほなら生徒会選挙あっさり出てくれそう、って下心しかなかったんだよね」と衝撃の真実を同級生から明かされました。
でも、生徒会をきっかけに自分は「自分の声と向き合う」ことができるようになりましたし、内面的にも大きく成長できました。それは紛れもなくその子がその下心で誘ってくれたおかげです。
「誘ってくれて嬉しかったし、楽しかった。ありがとう。」と素直に感謝しました。彼女の驚いた顔が今でも鮮明に思い出せます。


同時に思い出すのは、受験話がされるようになった頃のこと。
受験生の年に、生徒会の仕事をしながら進路の話をしたことがありました。

「たほはどこ高行くんだっけ?何でそこに行くの?」
志望校に対する希望や野望が膨れる中での質問、張り切って思わず ひとり突っ走って話をしてしまいました。
ふと我に帰り「長く話しちゃってごめん」と謝るわたしに、
「いいねぇ、楽しそう。聞いててたほの姿が想像できる。いい目標じゃん。」
と肯定してくれました。彼女は歌うこと・楽器を演奏することに自分の道を感じ、そして思ったことは鋭くド直球に発言するストイックで芯のある人でした。

だからこそ、嬉しくて 嬉しくて!!


作業中の些細な会話でした。
もう4年も前の話です。今頃、彼女はきっと忘れていることだと思います。
でも、すごく嬉しかったわたしは今でもずっと覚えています。自分の意見・目標に確かな自信を持つことができた瞬間でした。



小学生の児童会では、今の自分につながるきっかけが生まれました。

「たほさん、児童会やってみない?」
という担任の先生の誘いが始まりでした。

当時の児童会の決め方は緩く、アンケート式でした。
やりたい人は「◯」を、やりたくない人は「×」を、どっちでもいい人は「△」を書いてね、という自由に意見を提示できる方法でした。
皆が即「×」を書く中、1人だけ「△」を書いていたのです。

それがわたしでした。


児童会もなかなかに大変でした。
1年生から6年生という幅広い年齢差のある中で どう興味・関心を持って話を聞いてもらえるか、メンバー皆で考えてはダンスもしました。
正直 面倒くさいし恥ずかしかったし、すごく嫌でした。

だって、物によっては笑われてしまいます。
実際に嫌な記憶は残っていませんが、当時の疲れはすごかったことを覚えています。


それでも、たくさんの学びが児童会にはありました。

人に伝えるために考えて、計画して、発表することの達成感に気づきました。人前で堂々と発表すること・表現すること確かなやりがいを感じました。
今思えば、この経験があったからこそ 自分が発表できる機会を持つことを好きでいれているのかもしれません。



生徒会を例に自分を振り返りましたが、何一つ欠けてはならない今に繋がる「点」になっています。


小学校で児童会入りしていなかったら、そもそも今に繋がる興味と好奇心に繋がっていなかったかもしれない。

中学校で同級生に生徒会に誘われていなかったら、意見を言うことの恐怖に一生立ち向かうことが出来なかったかもしれない。逆に部活のトラブルが無ければ、生徒会に立候補する発想には至らなかったかもしれない。

高校の生徒会で係のリーダーをしていなかったら、責任ある仕事を信頼持って任される経験ができなかったかもしれない。ステキな後輩や生徒会メンバー、いろんな先生方と交流することの楽しさに気づけなかったし、たくさんのありがたい出来事にも出会えなかったはず。


全部繋がっているなぁ、とこうして振り返るたびに強く思います。


実際、中学校時代の「悪い出来事」も、全て自分にとっての「大切な点」になっています。トラブルを通して、「自分の意見を確と持つこと」の大切さも学びました

他のことも、全部こうして点が繋がって線になっています。そう思います。



この考えにしっかり名前があることを知ったのは、お恥ずかしながら、高校3年生の最後の英語の授業でした。

今は亡きApple創業者・アメリカ国家技術賞者のSteve Jobsの伝説のスピーチ「Stay hungry, Stay foolish」にある、一つ目のお話「Connecting dots(点と点をつなぐ)」です。
youtu.be
▽「伝説のスピーチ」の存在は知る一方で、一度も見たことはなかった。


わたしと同じような考えを彼が生前 大切にしていた事に、目からウロコの状態でした。きっとこの考えを教えてくれた兄弟も初めて動画を見たとき、同じように衝撃を受けたのだと思います。
そしてこのスピーチを実際に見る前に、アドバイスを通してわたしに一つの「点」を打ってくれました。

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今ではこの動画を何度も何度も見ています。
最後の英語の授業で配布されたスピーチ全文も、しっかり台湾に持ってきました。
大事に保管して、暇があれば何度も眺めています。

この考え方が わたしはとても大好きです。



留学して1ヶ月が経ちました。
わたしが夢に見ていた「留学」1ヶ月目が過ぎました。


この1ヶ月で、今までいくつ点を打てただろう。
また、これから先、一体どれだけの点を打つことができるのでしょうか。

ここ、台湾でも試行錯誤をしながら様々な挑戦を重ねていきたいと思います。



(この部分で何度も何度も書き直して、今の長文に至ります。ここまで大切に読んでくれた方がいたら、ありがとうございます。)





留学1ヶ月目を終えた現在の生活について

  • 学業の面

最初で語り尽くした感があるので、当時のツイートから抜粋。





  • 生活の面

いたって普通の日々を送っています。個人的には。


▽普通に過ごしていたら痩せました。4kgも。
これには衝撃を受けましたが、学校の立地的にそりゃ痩せるわな!!って感じです。下半身の肉が鬱々しいと感じていたところだったので好都合でした。


この1ヶ月で生活のことは普通にできるようになりました。
銀行の生活費両替・郵便局に預金など2週間目という早い段階までには中国語でできるようになりました。
ただ、それは向こうが察してくれているだけのようにも感じます。
大体は「〇〇したいんですけど、」と言った簡単な文章。その後は肯定・否定か、希望を簡素に伝えるのみ。まだまだです。


店員さん相手には楽勝ですが、人・個人として会話を通して関わることが全然うまくいきません。
現に、6月手前から住む新居探しに最高に手こずっています。


台湾では割と、Facebookグループを利用した物件のやりとりが頻繁に行われています。これはもちろん、英語or中国語

プロフィールでも散々書いていますが、大して言語ができるわけではありません
TOEICは去年時点で500点台ですし、中国語も取得級だけ4級とご立派で、実践では大して理解できていません。
そして、日本でも実家を出たことがありません。高校生活は実家でした。


そんなわたしが、果たして家を決めることができるの…??
知識のみは最低限ありますが、やっぱり未経験だとハードルが高いです……


そんな中、原因不明に規制されていたTwitterが通常通り使えるようになりました。
その頃からTwitterの交流頻度が多くなり、台湾在住の先輩方からよくアドバイスをいただく機会が増えてきました。
初心者丸出しな質問にも真摯に回答してくださり、為になるアドバイスを頂いています。本当に、いつもありがとうございます。


▽前言撤回。全然分かっていない。


現在はシェアハウスを探している途中です。
4月に入り、どんどん気持ちが焦り始めています。

新居探しを優先することを理由に、ブログ更新を後回しにする日々が多々あり、連休に入る前まで全然投稿できないでいました。
本当に申し訳ない。
最近見てくださる方が増えてきた分、しっかり更新したい思いとは裏腹に、身体に追いついていないのが悔しいです。


もし「ブログ放棄しやがった」と思っていた方がいたらすみません!めちゃくちゃ頑張って家探しに励んでいます。
暖かい応援をよろしくお願いします…(土下座)

家が決まり次第、うんと明るくご報告させていただきます。


  • 交通の面

この1ヶ月で、利用する公共機関もだいぶ変化しました。

まず一番に、タクシーを断固として利用しなくなりました
理由は一つ、死ぬほど高いと感じること。
わたしの現在の住まいまで利用したら、普通に1〜2日分の食費が吹っ飛びます。

二つ目に、利用する路線バスの幅が広がりました。
というのも、きっかけは前回記事で頂いたコメント。
chibarinochi-hare.hatenablog.com

政治大学の付近からバスに乗ると、緑線・松山新店線までは40分〜1時間かかります。ちゃんと体力を回復させてからのお出かけをお勧めします。
茶色線・文湖線は一応遠くもありませんが、手間的には松山新店線の方が便利です。

この部分に対して、ゲスト枠のコメントにてとあるアドバイスを頂きました。
「「緑1」というバスに乗り北上する方が近い」というものでした。


その週のうちに実際に利用してみると、これがびっくり。
めっっっっちゃくちゃ早い。えええ。
普段使っていたバスの半分以下の時間で到着します。すごく便利!
今まで知らなかった自分にも驚き、このことを知れたことにすごく感謝しました。


もしまた読んでくださっているのなら、伝えたい。
あの時にコメントをくださりありがとうございました!


ブログTwitterを通じて様々な方面から助けてもらっていることにすごく「ありがたい」と思うと同時に、現地からの情報って最強だな、と驚かされます。

皆さんの支えあって、快適な台湾生活を手に入れつつあります。
本当にありがとうございます。



変化といえば、このくらいでしょうか?
自分としては、もっともっと行動の機会を作ればよかったかな、と思います。


反省点は主にこれ。



  • 台湾出身の友達が欲しい

この通りです。新しい友達が、欲しい。
特に台湾出身の人と友達になりたい。ここにきて新たな壁にぶつかっています。

先ほども書きましたが、英語も中国語も現地の子と対等に向き合えるような語学力を持ち合わせていません
「どうすれば友達を作れるんだろう?」と考えたところ、またまた現地で暮らす日本人の先輩方Twitterにてアドバイスを頂きました。


どうやら、Facebookの言語交換グループが友達作りに効果的らしい。


そのアドバイスを受けてから、Facebookをよく眺めるようになりました。そして、いくつかの言語交換ページに参加リクエストを送ってみる。

リクエストが通り、承認後。
承認していただいたグループの内一つだけ、自己紹介を試しに投稿してみました。


その結果、何だかすごいことになってしまいました。



自分の行動次第では、ちゃんとした台湾出身の友達ができるチャンスが舞い込んできています。
ですが現在進行形のため、詳しくは後ほどお話しようと思います。

仮に成功しても失敗しても、隠さずここでお伝えする予定です。


こればかりは単品記事で書きたい、絶対に書いておきたい。
近日行動後、記事を書き始めます。

どうぞお楽しみに。


(毎度同じようなことを言っては一つも書き上げていない。)






今回はここまで。以上が1ヶ月を過ごした記録です。
結構話が脱線しまくりましたが、今の自分的には大満足です。

自分の思いを正直にかける場がある、というのは 中々にいいものだと感じます。
自分の気持ちを整理して振り返り可能にすることで、わたし自身も楽しんで そして真面目に自分と向き合っています
これが1年、2年と積もっていけばもっと面白いんだろうなぁ、と思います。


その振り返りができるようにするためにも、細々ではありますが書き続けていこうと思います。引き続き、「ちばりのち晴れ」をよろしくお願いします!



次に続く。