ちばりのち晴れ

'19年3月から1年の台湾語学留学を経験、高校卒業を起に突っ走る台湾奔走記

74年目の6月23日、台湾にて。

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6月23日、台北。今日は連日の雨続きで灰色空。
前日に比べ一層 降り頻る雨をバスの窓から眺めながら、「今日の沖縄は澄んだ青い空をしているといいな」とぼんやり考えた。



6月23日。全沖縄県民にとっては、とても大事な日。
そんな日を、初めてわたしは故郷の外で過ごす。
しかも国外で。今まで大して気にしていなかったのに唐突に違和感を覚える不思議な感じに、黙祷を捧げるお昼になるまで自棄にソワソワと落ち着かなかった。
いつもはあまり配慮しない台湾と日本の時差を分単位で気にしたし、そうして改めて「そうかここは国外だったのか」と当たり前に分かっているはずのことを不意に思い知らされた。

この後課題を進めなきゃいけないし、その一方で一心不乱にパソコンと向き合い 志望大学を照らし合わせて夜を明かした疲れた自分(自業自得)を労わり小1時間ほど寝てしまいたい。
だけど、どうしてもこの日に「どうにか”誰か”に何かしらお話がしたい心」が勝ったので、ブログという自分の場所を借りようと思う。



今月に入って、魚が水を求めるように民謡や県出身アーティストの曲…と故郷で聞いていた歌たちを流し続けては、夜遅くまで課題に手を出さず聞き入る日々が続いていた。ダメな留学生である。
毎日中国語を使う日々を過ごす中で、ふと急激に故郷の歌たちが恋しくなるのだ。そうして理由もなく涙したくなるし、心から癒されたいと願っている。
そういう今も上間綾乃の「花言葉」「あいうた」に大分癒され心揺さぶられている。

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決して精神面に特に異常はないのだが、やっぱり慣れ親しんだものに寄りかかりたい思いが湧き出てくるものだ。「決してホームシックではないのだけれど、」と困惑していたが、今日という日付を思い出して「わたしはただ心から故郷に寄り添いたかったのだ」と、今ならこの衝動を理解して受け入れることができる。


同時に、ふと「歌を歌いたい」「三線を弾きたい」という感情がふっと湧き上がった。


実はこういう感情は高校の頃にもふっとわたしの前に現れた。台湾に進路を固め始めた時に「今のわたしには、故郷を出る者として何ができるのか」と急かされるように、その衝動のままに電話でアポを取り、地元の三線教室の門を叩いた。
その頃の先生には、その行動に驚かれていたように思う。大人の部には一二周り離れた先輩方と、親に連れられ学び 進学して習い続ける中学生のみであったから、自ら志願して高校生がやって来ることはなかったのだという。

畳に制服で座り、曲に込められた昔話を聞き、歌い三線を奏でた。その時間がとても心地よくて、自分に正直にいられる気がして好きだった。稽古に参加する方とのんびりお話する時間もとても楽しいものだった。

しかし進級し中国語教室に通う頃、教室の時間的に両立が難しくなり、結局わずか1年ほどしかその空間にはいられなかった。
先生は期待してくれていただけに少し残念そうだったけれど、「台湾で公演をするときには連絡するよ」とおっしゃってくださった。先生はお若い奏者人生で三線片手に様々な国で披露なさっている方なので、遠くない未来に再会できることだろう。
三線を通して、三線のお店の方と弾むお話もあった。とあるお店では台湾の知人の話をしてくれ「機会があればぜひ、」と言われた。
そう自分で行動したことが「縁」となって残ることがすごく面白くもあった。

そうして最近、今月現れたその衝動に身を任せここ台湾でも門を叩いた。

言葉の壁があることは承知のことだったが、でもそれでも故郷に触れたい気持ちでいっぱいだった。こうして実際にその希望が叶い、晴れて三線に再び触れることが可能となった。心配をしていた言葉も、それほど考えすぎることも無さそうだ。
当然手は恐ろしく鈍り自分自身でも驚いているが、「継続は力なり」を信じて地道に思い出していこうと思う。
こうして実際に門を叩いて知ったのだが、わたしが駆け込んだ方はお世話になった三線店の弟子さんだった。やはりこういうところで繋がることがあるから、だから飛び込むことは面白いのだ、と心からにやけてしまった。


こうして、台湾で自分の故郷に想いを馳せながらの生活が始まった。
これらはわたしの故郷が沖縄であるからこそできることでもあるのだろう。確信はないけれど、そう思って仕方ない。わたし達は縁で繋がる生き物なのだろう。

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(三線を思い出すと聴きたくなる曲。)


そうした日々を送って迎えた今日という日、今日も一段と沖縄に触れながら遠い日々の悲惨な出来事に想いを馳せた。
小学生の頃に視聴覚室で見た戦争の記録ビデオを筆頭に、様々な媒体を通して沖縄戦を知った。だけれど、わたしには「人との対話」で沖縄戦を学べたことがない。

わたしの祖父はわたしが生まれる前に他界し、祖母はわたしが物心ついたときには親戚宅で補助を受けながら食事を摂りベッドで横たわっていて、今現在も変わらぬ姿のままだ。祖母がすでにその様子の頃に生まれたので、未だに名前を覚えられるはずもなく「あんた誰ね?」としか言われたことがない。
かろうじて父の娘、孫であることは信じてもらえているといいのだが、その状態でまともに言葉を交わせたこともないので些かの自信もない。

だから、オジィオバァから話を聞いた、という方々が羨ましくもある。対話のできる祖父母がいることは、この先自分が歳を追う中で自己の「大事な一部分」へと変わりゆくことが十分にあるのだろうと思うから。
それは沖縄での関係では、島人としてとても素敵なことであるように思う。だから、そのような立場が少し羨ましく感じるのだ。

と、HYの「時をこえ」を聞いて思うのでした。

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(音量大きめがお勧めです)



戦争終結の年から74年。70年弱もの時間が過ぎ去った。

近年はAIの進化で、当時に残る写真が続々とカラー化されていて、その写真を見かける度に当時の風景が鮮明に見えてくることがある。きっと映像も完全対応される未来があれば、戦中の映像はとても痛々しく、残酷で、より見るに耐えないものになるだろう。
人がただの物体のように転がり落ちるような、そんな惨さのある戦時中の映像を見たことがあるだろうか。小学校の頃に映像で見たが、とても現実にわたしの生まれ育つ土地で起きたものとは信じられなかったことを思い出す。
それを己の眼で見た先人は、よく精神を保ち生き延びてきたと心から思うのだ。


戦後74年目。その数字の間に、一体どれだけの波乱がこの土地を揺がしただろう。


本当に色々ある。戦時中の傷跡も、戦後刻まれる傷跡もまだ完全に癒る事は無い。
今でも不発弾は一般の道路から出てくるし、度々取り出しの工事が行われる。アメリカと日本それぞれの荒波に揉まれた時代を受け、今も終わりの見えない問題と戦い続けている。あとどれだけの年月がいれば、円満に解決ができるのだろうか。
もしかしたら和解などできないのかもしれない、そんな想いも抱いてしまうのだ。

去年だったか、変化を起こせる期待の目もあったが、実際今現在に反映された気配はない。わたし達の声は一体どこへと消えていったのだろう。
ただ、戦時に関することだけでなく、わたし達の問題は他にもまだまだあるのだ。ただの「緑の島」というだけではやっていけない、人々の生活の苦しさがあることもまた事実だ。

ふとした時に、わたしは自分が年老いた頃の故郷の未来を心から心配する。わたし達の島はこの先どうなっていくのだろう。ぼんやりと、考える。


戦後を超えても、この島の問題は一纏めには片付けきれない。



中学校の頃に迎えた慰霊の日、新聞で読んだ、式典にて披露されたとある高校生の詩が今でも忘れられない。「みるく世がやゆら」という詩である。

みるく世がやゆら。今は平和でしょうか。

木々が青々と広がり心地の良い風が吹くこの季節に読むと、彼が詩に描こうとした光景がありありと浮かんでくるのだ。彼の訴えが胸を通っていく。
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(42分頃から本人朗読)
www.peace-museum.pref.okinawa.jp
(高等学校 最優秀賞PDFを参考)



こうして今日、目一杯沖縄を想いながら1日を過ごした。

個人としてはSNSを使って留学を機に仲の良くなった方々向けに、慰霊の日についての概要を英語・中国語の資料リンクを貼りつつ「どうか読んでほしい」と促した。それくらいしかわたしにはできなかった。

そして書きたかったことが長くなりすぎて、わたしの課題が切羽詰まっていることにここまで書いて気がついた。今日も徹夜決定だなぁ。



わたしはこの土地・台湾で故郷を想い、これからも故郷の音楽を聞いて生きていきたい。これからも引き続きここで学んで生きていきます。




今を、精一杯生きていかねば。